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丸東へ、再び

――黒部丸山東壁大チムニールート登攀記――

【期日】  2000.2.10-2.13

【メンバー】 高嶋、岡田

【日程】

2.10 京都→平湯温泉(仮眠)

2.11 平湯温泉→中の湯→上高地→立石→徳沢(泊)

2.12 →上高地→平湯温泉→松本→大町(泊)

2.13 →黒部ダム→大町→京都

 

黒部丸山東壁大チムニールート

【期日】  2000.3.9-3.12 

【メンバー】 高嶋、岡田

【日程】

3.9 京都→大町(仮眠)

3.10 大町→黒部ダム→丸山東壁大チムニールート洞穴

3.11 大チムニールート→黒部ダム(泊)

3.12 →大町→京都

 

1. 屏風岩二ルンゼ

遠い道のり、そして敗退

火曜日の晩、ミーティングの後でメンバーの一人であった笠見くんから急に行けなくなったとの連絡を受ける。彼はきっとたくさん荷物が持てるだろうと、岡田くんと二人でひそかに期待していただけに、残念である。さらに岡田くんが言うには、三人だと、一人はフリーになるので、写真を撮ったり、あるいはビレイをしながらしゃべったりと気が紛れるが、二人だと、絶えず登るかビレイするかで気が休まる間がない、と。正論である。しかしいまさら何を言っても始まらない。僕は装備、計画の上に食糧も担当することになってしまった。水曜日の昼から少しと、木曜日の午前中いっぱいが準備でつぶれた。珍しくアイゼンやバイルも研いだ。研ぎ具合で成否が、そして生死さえわかれることを思うと、自然とヤスリを握る手にも力が入る。一旦、仕事をしにいき、6時頃、近くの「とん吉」という店でトンカツ定食を食べる。8時に京都駅へ行って、われわれの持っていた重いスコップと八ヶ岳隊の軽いスコップを交換してもらった。(岡田くんは自分で軽いスコップを持ってきた。そしてそれは交換してもらったものと同じだったから結果的にはわざわざ京都駅までとりにいくことはなかったのである。)職場に戻って、仕事を片付けていると、岡田くんからもう京都についているとの電話を受け、あわてて家に戻る。彼の荷物を車に積んで、9時前に出発をする。今回ははじめて東海北陸道を走る。途中から一車線の対面通行となり、スピードが落ちる。終点で高速を降りる。下の158号線は完全に雪で覆われていた。スリップしないよう気を使いながら、慎重に走る。途中の峠で、温度計はマイナス16度をさしていた。申し分ない寒さといえるが、アイスクライミングにはすこし寒すぎる。気温が下がりすぎると氷が堅く、そしてもろくなるからだ。高山の郊外をすぎ、平湯温泉の駐車場には午前2時に到着する。ここまで5時間の運転だったが、雪道なので疲れた。始発のバスは午前8時前なので、6時半にアラームをセットした。

翌朝、起きて時計を見ると、7時を過ぎている。よくよく時計を見ると、アラームを午後6時半にセットしてしまっていた。到底バスには間に合いそうもないので、車の中でゆっくりと朝食をとり、着替えを済ませてから外へ出て準備をする。それにしてもよく冷え込んでいる。8時半、タクシーを捕まえて釜トンネルへ向かう。10分そこそこなのに、4000円(往復のトンネル代が含まれる)。釜トンネル入口付近は、人と車でごったがえしていた。本来は駐車禁止なのだが、ところかまわず車が止まっている。静かな山旅を期待していただけに、この情景には閉口した。真っ暗なトンネルのなか。岡田くんはヘッドライトを出すのに手間取っていたので、僕は一人先へと歩き始める。漆黒の闇の向こうには、燦然たる銀世界が待ち受けていた。闇になれた目には痛くなるほどの眩さである。大正池、帝国ホテル、ふだんはバスの窓から眺めるだけの景色をゆっくりと楽しみながら、けれども人の多さにいささか嫌気をさしながら、小雪の舞う雪の道をとぼとぼと歩く。やがて上高地のバスターミナルが見えてきた。ここで一息入れる。すこしたってから岡田くんが追いつく。彼はいつになく、相当へばっている。荷物を持って山に来るのは、実に一年前の米子不動以来だという。行動食を食べていると、水を忘れてきたことに気づいた。まあ、寒いしのども乾かないだろう。河童橋を左手に見送り、しばらくいくと、車の通れる広い道が急に一条のトレースに変わる。雪はひっきりなしに降りつづける。ゴーゴーと山が唸り声を上げている。今日は山の神様の機嫌はいまひとつのようだ。岡田くんがばてているのを幸いにゆっくり歩く。当然、時間はかかる。明神をすぎてしばらくいったところで、足がもぐってうっとうしいのでたまらずわかんを履く。わかんの威力はたいしたもので、ずいぶんと歩行が楽になった。徳沢の手前でわかんなしのパーティを追い抜く。道が川沿いにでると、強風のためトレースがすっかり消えてしまっている。ちょっとした吹雪の中、ラッセルをする。本来なら、ここから前穂の東面がみわたせるが、今日はすっかりガスの中だ。次第に壁の状態が気になってくる。予報では弱い低気圧が通過するから、天気はすこし崩れるということだが、朝からずっと雪がふっており、雪崩の可能性は高い。明日登れるだろうか、そんな不安がでてきた。徳沢には3時すぎに到着。ひどく時間がかかってしまった。このぶんだと本谷橋に着くのは早くては6時すぎになるだろう。先を急がねばならない。新村橋をすぎたあたりで、前から3人パーティが降りてくるのとすれちがう。どこから帰ってきたのだろう。ともかく本谷橋までとはいわないまでも、横尾まではラッセルがあるにちがいない。そう思ってペースを上げ始めたとたん、トレースが消えた。そう、さっきすれ違った彼らは、今日ずっとここまでラッセルしてきて、時間切れでひきかえしたのだ。こうなればラッセルするしかない。膝くらいのラッセルだが、つらい。岡田くんがやがておいついた。あんまりしんどいので、荷物を下ろして空身でラッセルをする。4時半、立石についた時点で決断を下した。横尾までこのペースでいけば、1時間以上かかる。今日中に本谷橋へいくのは絶望的である。もし明日横尾から出発すれば、とりつきに着くのは朝もかなり遅くなってからであり、そうなると雪崩にやられる確率が非常に高くなる。かりに本谷橋まで行けても、今日降雪があったのだから、明日登るのはあまりにも危険がたかい。徳沢へひきかえすしかない。すぐ後ろにいた東京のJCCのパーティも僕らと同じ地点で引き返す。日程が4日あるという東京のパーティと東壁ルンゼを登りにきたパーティは、そのまま横尾に向かったが、彼らがどうなったのかはわからない(結局引き返したらしい・・・後日談)。今晩は荷物を減らすため、各自アルファ米1袋と、レトルトを2袋ずつ、さらにスープを飲むことにした。岡田くんはしかし、気味が悪いほど食欲がなく、レトルトを全部食べきることができずに僕に手渡した。今後の行動を考えるがなかなか決まらない。明日はとにかく平湯へ下ることにして、その後については結論を先延ばししてともかくそのばんは寝た。

 

丸東への転進

翌朝、テントの外には抜けるような碧空がひろがり、前穂の東面の威容が目の前に望まれた。なんて美しいんだろう。冬の壁には、容易に近づき得ない崇高さがある。今日の岡田くんは、昨日とは見違えるように元気だ。こっちも思わず足を速める。ほとんど走りださんばかりの勢いだ。9時に徳沢を出て、10時半には河童橋の前にいた。人がどんどん登ってくる。長く単調な雪道を歩いていると、ふと米子不動のことを思い出した。あのときも苦い敗北感を味わいつつ下山した。そのとき、前みたいに荷物をデポしておけば今ごろ空身で歩けただろうなあとふと思った。次の瞬間、それは後悔の念に変わった。どうしてデポしなかったんだろう。どうして昨日このことを思いつかなかったんだろう。岡田くんとこのことを話しているうちに、明日丸山へ登攀具をデポしに行こうという合意が自然に出来上がった。そう、また冬の黒部へ行くのだ。わくわくすると同時に、厳しい登攀のことを思うと、心臓が圧迫されるのを感じる。やがて釜トンネル。急に闇の世界に包まれ、頭がくらくらする。再び光の中に飛び出すと、そこはもう中の湯である。温泉に入ってから、松本へ向かう。雪慣れしてない車がおおいのか、渋滞がつづき、松本の郊外に出た頃にはもう3時前になっていた。レストランで(2人とも)カツどんとそばのセットを食べる。今日はすることもないので、だらだらと2時間ばかりねばり、5時まえにようやく大町へ向けて出発した。途中、スーパーで買い物をしたりして時間をつぶすが、それでも6時前には大町のすぐ手前まできてしまった。何をしようかとコンビニの駐車場で相談する。僕は温泉に行きたいといったが、彼は興味を示さない。かといってまだおなかがすいていないので、食べにいくわけにもいかない。結局、われわれから山と飯を取ったら何も残らないことがよくわかった。惣菜の類を買って、目的地までいき、ここでゆっくり酒を飲みながら時間をつぶして、8時過ぎにはもうシュラフにもぐっていた。

昨夜は満月でもないのにあれだけ明るかった空が、今朝は白く澱んでいる。8時、雪の降る中を歩き始める。そういえば前に来たときも雪の中だった。一晩でずいぶんと雪が降ったようだが、おかげで滑らないですむ。所々、雪がなくて下の氷が顔を覗かせている。そういうところはつるつるすべって歩きにくい。かといってそれはジョギングシューズをはいているからではなく、プラブーツを履いている岡田くんも歩きにくそうなのには変わりない。アイゼンをつけなければ(そしてここのようにステップも切れないところでは)かえってジョギングシューズのほうが底が柔らかくて接地部分が大きいので滑りにくいようにさえ思えた。夕方に歩き始めて回りもそして心の中も暗かった前回とは打って変わって今回は気楽だ。荷物もさほど重くない。9時半にはもうトンネルの入り口に着いてしまった。やはりトンネルの中は暖かい。アウターを脱ぐと、2人とも下はパッチだけになった。お互いカッコ悪いと言いながら、誰も見ていないので良しということにし(岡田くんはテレビ局の取材が着ていたらどうしようと心配?していたが…)、出発する。トンネルの中に長い間いた経験のある人はいるだろうか?トンネルというのは本当に不思議な空間である。真上には畳々たる後立山の巨大な山塊がのしかかっているのだ。地表から何百メートルも下の、コンクリートの筒の中、出口も入口も見えない奇妙な空間。歩き始めてすぐに風があることに気づいた。これがまた冷たい風だ。寒くてたまらないが、アウターは入口のところにおいてきてしまった。自然と歩くスピードが上がる。前回はプラブーツを履いてこの果てしない黒部のトンネルを歩いたが、ジョギングシューズだと快適そのものである。10時40分、トロリーバスの駅に到着。外への出口はいずれも雪で埋まっている。出るときには雪を掘り出さねばならない。鍵のかかったレストランの窓からは、厳冬の黒部の景色がうっすらと見えた。白銀と強い風。荷物をベンチの下に隠して帰途に着く。僕は時間が気がかりでならない。というのも今日の昼ご飯は岡田くんが何といおうと昭和軒で食べるとかたく決めていた。その昭和軒は午後2時に一旦閉まってしまうのだ。最初の坂を登り終えると、道は水平になり、トンネルの側灯がぽつりぽつりと遥かかなたまで続いているのが見えるようになる。気がつくと2人は走り出していた。走り始めたのは、岡田君のほうが先で、僕は運転のこともあってあまり走りたくなかった。けれども時間が厳しくなってきたこともあり、一緒に走り始めた。冬の黒部のトンネルを走った人は僕らが初めてではないだろうか(無雪期は歩行禁止であるから冬に限定する必要はないかもしれない)。1キロ4分くらいのペースで気持ち良く走り、あっという間に出口に着いた。ここでアウターを着込み、車道をひたすら早歩きする。太陽のおかげで氷も融け、とても歩きやすい。プラブーツは一応持ってきておいたのだが、結局使わずじまいだった。12時15分、車のところに戻り、そのまますぐに温泉に向かう。さっぱりした余韻を楽しむまもなく、車に乗り込んで大町へ。ここで初めて急いでいる理由を岡田君に説明する。2年前に丸山から降りてきたとき閉店セールをやっていたジャスコは、そのままの形で残っていた。(注:木曽福島で入院中の小谷野さんを見舞いに行かないといけないので、晩御飯はあとにし、花を買いにジャスコへ行った。ジャスコでは閉店セールをやっていて、すべてがむちゃくちゃやすかった。ブルーになっていた岡田君は目の色を変えて買い物を始めた。今晩はここの総菜ですますことにした。半額とか3割引とかのものが多く、ミニカツ丼、すしの詰め合わせ、メンチカツにお茶を買った。さらに一階で120円の特売ケーキを買う――1998年丸山登攀記録より)引き受け手がないところをみると、大町の景気も悪いらしい。市内の駐車場に車を置き、一人先に歩いていく。昭和軒の前に立って、愕然とした。閉まっているのだ。まだ1時半なのに。ひょっとしたら、ガイドブックにあった「定休日不定」というやつにひっかかったのかもしれない。第二候補のこまつうどんもしまっていて、仕方なく「うなぎとかつとぎょうざ」が名物という中華料理店に入った。ソースカツどんを食べたのだが、ソースに工夫がなかったのが不満だ。帰りは連休最終日お決まりの大渋滞にまきこまれ、大町を2時にでたのに京都は午後11時着になってしまった。

 

2. 黒部の詩人

 

今回、中国に持ってきた本の一つに冠松次郎『黒部渓谷』がある。上海の三つ星ホテルのベッドの上で、ジャズをBGMに『黒部渓谷』を読んでいると、居ても立ってもいられない、そんな気持ちになってくる。そう、黒部が僕を呼んでいるのだ。僕の荷物は黒部の深奥の山の中で僕の再来を待っているのだ。冠の描く黒部渓谷は、今日のように人臭い黒部ではない。ダムはおろか日電歩道もない時代の黒部である。だがそんな黒部も大正、昭和と時を経るにしたがって人の手が入るようになる。冠は日に日に変貌してゆく黒部の姿を見て嘆かずにいられなかった。太古の黒部を感じることができるのは、もはや冬の間だけではなかろうか。それもトンネルの中をくぐりぬけ、あの巨大なコンクリートの塊、黒部ダムが見えなくなってからのことであるが。そこにトンネルがあるというだけでずいぶん気分が違うのだ。なにせ遥かたかくに聳え立つ後立山連峰を越える必要がないのだから。その点で、やはり太古の絶望的な冬の黒部はもうとりかえしがつかないのである。

冠はよくもわるくもこんにちの黒部イメージを作った人である。冠のような詩人に発見され創造された黒部は幸せである。とはいえ冠はけっして黒部に入った最初の人間ではない。本人は下から上まで完全に遡行した(もちろん一度にではないが…)最初の人間だと考えているようだが、それはどうかわからない。しかし世間に黒部の名を知らしめた最初の人間は、間違いなく冠そのひとであった。

 

剣岳、立山、双六谷、黒部、

あんな大きな奴を友だちにしてゐる冠松、

あんな大きな奴がよつてたかつて言ふのだ、

冠松くらゐおれを知つてゐる男はないといふのだ、

あんな巨大な奴の懐中で、

粉ダイヤの星の下で、

冠松は鼾をかいて野宿するのだ。

 

人夫が懸命にルート工作や食事の準備をしている間、一人詩境にひたる冠のスタイルは、現代の貧乏クライマーから見ると、いかにもブルジョワ的で反発を感じないわけには行かない。しかし当時は登山自体がブルジョワ的であったのだから、これは仕方ないことではある。大体、こんにちでは人夫に代わって優れた交通機関があるのだ。電車やバスやリフトを駆使しながら、それらがなかった時代の登山スタイルを非難することはできない。自ら記録を書き残して自分の見解・主張を示す機会がなかったという意味で、これら物言わぬ人夫たちがどのような気持ちで冠の山行を見ていたのか、少し知りたい気持ちがする。余談になるが、冠がよく山行をともにした人夫に宇治長次郎がいる。剣岳の長次郎谷はまさに彼にちなんで名づけられたものである。(2月29日、『黒部渓谷』をあらけん氏に進呈したので、これ以上書けなくなった。途中だが、本章はこれで終わり)

 

3. 丸東へ、再び

 

黒部から帰ってきた。いまの気持ちをどのように表現したら良いのか、適当な言葉が見当たらない。あまりに大きな充実感、達成感、それはかえって人を無力にしてしまうものだ。半ば気の抜けた状態で、パソコンに向かっている。

最初から何かが違っていた。ほとんど毎晩のように岡田君と連絡を取り合った。彼が丸東にむけて毎晩走っているというのを聞いて、僕も月曜日の夕方、ひとり金比羅へ行き、アイゼントレとユマールの練習をした。何かしていないと、あるいは何か考えていないと落ち着かなかった。楽しみではあったが、重圧のせいか早く終えてしまいたくもあった。だが今から思うと、そういうのが幸せな状態なのだ。日常では味わえない極度の緊張感、それがじわじわと迫ってくる。

気合いの割に準備は杜撰だった。木曜日の午後、職場で退官する先生方の記念講演があるのをいいことに、雑誌の発送の仕事を終えてからこっそり職場を抜け出して準備に奔走する。「奔走」というのはまさにこのことで、プラスチックの「そり」を求めてあちこちの店をまわったのだ。ようやくジャンプ高野店で690円のそりを発見。車を取りに帰って、再び戻ってくると、5つもあったそりがすっかりなくなっている。売れないから倉庫にしまったのかと思って店員に尋ねてみると、なんとさっき全部売れたという。がっくりきてこれ以上そりをさがす気にならず、今度は標識の材料を探すことにした。大工道具店でプラスチックの棒が70円で手に入った。これに赤テープを巻き付ける。なぜ標識が必要かというと、吹雪や夜になるとトンネルの入り口がわからなくなるからだ。前回はちょうど作業の人たちがトンネルの入り口で焚き火をしていたからわかったが、今から思えばぞっとする。もし雪で埋まって入り口が全くわからないと言うことにでもなれば、見当をつけて雪を掘るか、後立山を越えるかしないといけないのだ。岡田君は前夜に富沢氏と電話をして標識のことを聞いていたらしく、学校から棒をもってきていた。(結局、僕の車に積むのを忘れてしまったが…)用意が一通り終わると、レジュメのコピーをして、ミーティングに向かう。岡田君は9時頃来るかと思っていたが、もう既に来ていたので、あわただしく出発する。関ヶ原付近で激しい雪となり、渋滞で進行がはかどらない。濃尾平野に入ると、雪は止み、再びスピードを上げる。寝不足気味で疲れていたので、恵那峡でついに岡田君と運転を代わってもらう。豊科で高速を降りる。大町に近づくにつれて雪がちらほら降り始め、大町に着くころには激しい雪に変わっていた。もう2時前、予定を大幅に越えてしまった。

前夜の雪が嘘のよう。谷間の上には蒼く明るい空と綿菓子をかきちらしたような白雲。7時半、荷物をまとめて日向山のゲートを越える。もうすっかり歩き慣れた道。後立山の稜線が視界に飛びこんでくる。そこだけ周りから浮かび上がっているかのような、そこぬけした白さ。S字カーブのすぐ後のシェルターから先はラッセルになった。(2月に来た時はラッセルなしだったが…)くるぶしから時には膝下くらいまでのラッセル。ジョギングシューズなので足首から雪が入る。けれどももうすぐトンネルなので、履き替える気はしない。猿が一匹、道ばたで我々の歩く姿をじっと見ている。そして、トンネル。相変わらず会話はない。前方を見つめたり、足元をぼんやり眺めたり、考えることはただ一つ、早く着かないかと言うこと。

10時すぎ、トンネルの終点に到着。ここでデポを回収する。開けてびっくり、予想もしなかった物が数多く入っていた。重複して持ってきたものが多すぎる。何をデポしたのかきっちりメモを取っておくべきだった。荷物を振り分けるため、そこらじゅうに広げたところ、あまりの荷物の多さに閉口し、また何からどうしていいのか分からず、しばし茫然とする。荷物を削らなければならないことだけはよくわかった。ギアだけは削れないので、食料、テント、サブザックなどが対象となった。それはそうと、帰りのことが気がかりだ。我々二人にロープが3本、バイルが5本、持っていかないことにしたテントなどなど、全部持って帰らないといけない。食料を減らすため、僕はここでラーメンを2袋食べる。散々散らかした荷物をなんとかザックに収めるともう12時前になっていた。

出口の扉を開けると、雪の壁。ここは雪の下なのだ。いったいどれくらい深いのだろうか。狭い場所で、斜め上へと雪を掘っていく。下から「掘り上げる」と掘った雪が自然に落ちてくる。でもいいことはそれくらい。重力に逆らって下から掘り上げるのはなかなか大変な作業である。どこまで掘ればいいのかすら見当もつかない、無期懲役を課せられた囚人の労働のような――それ自体に意味を見出せない――絶望的な営為。やっと体が通るくらいの穴の中、窒息するんじゃないかと心配だ。時々足を滑らして下まで落ちてしまう。そうなると、掘るのを交代する。まるで光を求めて地上に向かうミミズのようだ。暗闇でこんなことをしていると妙な無力感に襲われる。先がうっすらと明るくなってきた。それでもなかなか外にはでれない。岡田君に代わってもらい、そしてまた僕が掘り進み、ようやくスコップが空を切った。長い穴の向こうには、白く穏やかな黒部が横たわっていた。もぞもぞと穴からはい上がり、雪の斜面に立つ。岡田君はトンネルが埋まらないように広げようとしているが、そんなことより早く行かないといけないと彼をせき立てる。ここから見下ろす黒部川は、白布を切り裂く一条の黒い帯だ。トンネルの手前でラッセルがあったので、ある程度のラッセルは覚悟していたが、予想以上の雪であった。最悪でも2時には取り付いて2ピッチくらいフィックスできると思っていたが、2時なってもまだ内蔵助谷の出合にすら達していなかった。途中でカモシカがラッセルしているのに追いついた。いくらカモシカでもラッセルは辛いらしい。間近に近づいても逃げない。写真を撮ってその場を後にする。岡田君は「今晩のおかずにどうですか」などといっている。確かに鹿系の肉だからうまいかもしれないが、もうこれ以上荷物を持つのはご免だ(そんな問題ではないが…)。出合からは、丸東の壁を見あげながら急斜面をラッセルする。「見ながら」といってもラッセルをしている最中には上を見上げる余裕もない。ふと立ち止まって見上げる。いつまで経っても近づかないのがもどかしい。ついには荷物を置いて空身で息も絶え絶えに前進して行く。最後の斜面は胸までのラッセル。すぐそこに取り付きが見えるのに距離は一向に縮まらない。

大チムニーは中央壁と右岩壁の間にある巨大な切れ込みである。取り付きから見上げる大チムニーは素晴らしいの一言に尽きる。傾斜は強く、平均して70〜80度くらいあり、上部には白濁した氷が垂れ下がっている。取り付き付近は若干広い雪のテラスになっていたので、そこでビバークしようかと思ったが、1ピッチ登ったところには10人くらい寝れる大洞穴があるというので、そこを見てからということに決まった。もう4時を過ぎていたから急がないといけない。僕はもうしんどくて登る気がしない。岡田君が登り始める。1ピッチ目は20メートルだが、大半は雪で埋まっており、チョックストーン左側壁の人工から始まる。単なるアブミのかけかえではあるが、ピンが氷や雪に埋まっているから時間がかかる。無雪期に登っていれば、見当もつくのだが。壁の感じからこのあたりにあるはずだというところを探っていく。時には頭のとんだボルトもある。チョックストーンの抜け口、氷が垂れ下がっていたが、そのあたりで彼は苦労していた。ややあってビレイ解除のコール。洞穴は快適ということなので、僕も上へ上がることにする。重い荷物を持ってのユマールは大変だ。洞穴に着くと早速ビバークの支度をする。もう暗くなり始めていた。ツェルトを張ってみたものの、外の方が気持ちいいので食事は外で作る。洞穴のなか、岩と岩の間から、真向かいの黒部別山が暗闇の中ぼんやり白く浮かび上がっている。満月だったらさぞかし美しいことだろう。洞穴の壁には氷のカーテンがしかれている。ろうそくの光の反射が幻想的な気分を盛り上げる。この氷のカーテンは、美しい以上に、水の供給源として重要であった。食事を済ませると、すぐに寝支度をしてシュラフに潜り込んだ。

4時半起床。お湯が沸くのを待つ間、コンタクトを入れる。慣れないものだから手間取る。15分くらいは格闘していただろうか。食事を済ませた頃にはうっすらと明るくなっていた。3時になったらどこにいようが下降を始めることを申し合わせる。ルートは左上していき、通常は隣の緑ルートを下降することになっている。左上するから懸垂下降をした場合、次の支点へ到達できない可能性が非常に高い。下降に手間がかかることを計算して3時という時間に決めたのだ。まずは岡田君がリードする。向かって左の壁、クラックの間に張った氷を使ってフリーで登っていく。冬壁でこわいのは、ピンの場所がわからないままフリーでつっこんでいくことである。遠くでもいいからピンが見えていれば、思い切ることもできるが、全く見えない場合は、岩の感じからどこを登るはずだという見当をつけていくしかない。それはまさにそういったクライミングであった(夏にでもきていればこんなことにはならないのだが)。彼の姿が見えなくなってからもひっきりなしに雪や氷が落ちてくる。だがロープはびくとも動かない。時間がかかるのは予想できたので、じっくり腰を落ち着けて気長にビレイをする。天気がよいからか、岩壁に挟まれているからか、風がないのが幸いだ。のんびり黒部の山々を見ていると、気分も愉快になってくる。3時間後、ビレイ解除のコールがかかる。残置を回収しながらユマーリングする。昨日と違って荷物が軽いから楽である。

ルートはコーナーに沿って左上する。岩には透明な氷が付着しているので、ダブルアックスで登る。ずっと左のフェースの氷のなかにボルトが見えたが、こういう場合はスクリューの方が安心できるし、ルートも自由にとれる。薄い氷を気持ちよく登っていき、右手のチムニーに入り込む。着膨れした体にはつらいものがある。岩に挟まれ、手足をばたばたさせるが思うように動かず、じりじりと落ちていく。つっぱるだけでも冬は意外に体力を消耗してしまうものである。こんな時は思い切って行くしかない。チムニーの上のフェースめがけてフリーでぐいとあがる。やってみるとえてして簡単な場合が多いのである。そこからは単調なアブミのかけかえ。ボルトも見えており気分的には楽である。楽だからといってゆっくり休んでいられない。こういうところこそ素早く抜けねばならない。ぜーぜー息をはきながら、人工の個所を通過する。チムニーのつきあたりでビレイ。つぎは氷の張ったチムニーをトラバースして上へ抜けていく。夏であれば体を突っ張って抜けれるところだが、冬はそういうわけにはいかない。狭いのでバイルを振ることもままならず、スクリューを打ち込んでアブミをかけ登っていくしかない。抜け口のところは、背中側にボルトが打ってある。前ばかり見ていると見落としてしまいかねない。それを見つけた岡田君は自分自身を天才だと言っていた。チムニーを抜けたところから左の氷に移る。ここからはもう彼の姿がみえなくなる。あっ、という声がしてすぐ、彼の姿が見えた。バイルが抜けて落ちたという。気を取り直して登り返す。トラバースの箇所をユマーリングするのはなかなか難しい。どうしても振られてしまうからである。なんども振り子時計のように宙を舞う。風に吹かれて右へ左へ揺れる柳葉の上の蟻のようだ。

次のピッチは核心である(と思っていた)。ユマーリングをしながら、じっとルートを観察する。このピッチは全くの氷だ。僕はどうも岩より氷が好きみたいで、ぞくぞくしてたまらない。岡田君は2ピッチのリードで疲労困憊したらしく、無理をせずにいつでも降りてきて下さい、といつになく弱気である。彼は下降のことが気になるらしい。僕はといえば、この瞬間のためにここまで苦労してやってきたのだと、プレッシャーと喜びの入り交じった複雑な気持ちでいた。慎重に準備をする。厳しいピッチでは、どこにどのギアがあるのかをきちんと把握しておかないといけないし、必要なものほど取りやすいところにつけておかねばならないからだ。すこしテンションで降ろしてもらい、薄い氷をトラバースしてコーナーのやや厚い氷に達する。氷質はよくない。ぐさぐさの氷だ。登るにはいいが、プロテクションが取れない。ビレイ点のやや上の高さまで一気に登り、スクリューを打つが、すぐに空回りする。何箇所も試したがうまくいかず、スクリューを打つのはあきらめた。スクリューで開けた穴にシュリンゲを通して支点とする。氷が硬ければ十分効くが、こんな氷では気休めにもならない。さすがにこれではまずいので、同じような支点をもう一つ作った。まずいというのは、トラバースして最初の支点なので、この上で落ちて支点が抜けると右の壁にたたきつけられてしまうからだ。こういう精神的重圧の大きなところはもう思い切りでいくしかない。コーナーの登りやすそうな所は氷というよりは堅雪でバイルを受け付けず、自然と右手の垂直なフェースにかかる薄く急な氷へと導かれていく。傾斜が若干落ちたところでまた同じような支点を作る。「早くスクリュー打って下さい」という岡田くんの声が聞こえてくる。それは登っている本人が痛感していることだが、打てないものは仕方ない。恐怖感が微塵もないのは不思議なことだ。黒部の懐でこんな素晴らしいアイスクライミングをしている自分に酔いしれていたのだろう。3つ目の支点はスクリューだった。半分も入らないが、いままでよりは氷が堅かった。半分も入らないスクリューは、所詮気休めにすぎない。そこから氷が所々うすかぶりとなる。本流は直上だが、右手の岩のコーナーで少し休めそうだったので、右に進路を取る。やっかいな凹角をまたぎ、ハングした岩の上から垂れ下がる氷にスクリューを打ってみた。これは根元までしっかり入る。ようやく落ちても大丈夫な支点ができた。ほっとしたのも束の間、コーナーに上がるには、右側の氷の上に発達した雪庇を越えなくてはならない。雪は中途半端な堅さで、バイルを何度も振るがなかなか崩れない。下から崩していくので、上の方は頭よりも外側になり、苦しいことこの上ない。もしスクリューが効いていなければ、とてもこんな体勢でバイルを振り続けることなどできない。スクリューに体重をかけて休んではまた少し登って雪を崩す。雪の下はぐさぐさの雪で、バイルがきかない。だましだまし登るしかなかった。一度、乗り越しに成功するが、そのあとどうしようもなくなりまた降りる。もうすこし雪を崩しておかないといけない。雪かきですっかり腕が消耗してしまった。2回目は岩をうまくつかって台の上にあがれた。そこから這うように岩と雪の継ぎ目を上がっていくと、左手にボルトが見えた。ルートは正しかったのだ。ボルトが3本もあることからしてビレイ点らしかった。ルート図を取り出してよくよく見てみると、核心の5ピッチ目ではなく4ピッチ目だった。5ピッチ目はそこから狭いチムニーを上がり、氷を叩き割って傾斜の緩くなった氷の部分を登るということだ。だがいまのアイスクライミングの水準からみると、そのまま氷を直上したほうがよさそうである。同じような傾斜の氷が10メートルほど続いた後、緩やかになって最後は雪壁になるようだ。だが僕にはもう力が残っていなかった。もともと最後の6ピッチ目は登る気がなく、5ピッチ目を僕が登ったら、岡田君はもう登らず、下降するという予定だった。僕が登らないとなると、下降するしかない。敗退?そうともいえる。そのときはそんな言葉は浮かばなかった。充実した気持ちだけが身体に漲っていた。岡田君のいるところまで戻り、下降の準備をする。まず僕が懸垂をする。が、空中でユマールの紐がエイト環にまきこまれてしまい立ち往生する。渾身のリードのあと、いきつくまもなく下降を開始したので、頭が全く働かない。さらに何も口にしていないことからくるガス欠が加わってやばい状態になる。ぶらんぶらんとロープにぶら下がりながら身体を休めて気持ちを落ち着ける。こういうときに無理をすると大事故につながる。ユマーリングでテラスに戻り、岡田君に先に降りてもらうことにした。彼が降りている間、温かいお茶をのみ、行動食を食べ、じっとうずくまっていると徐々に落ちつきを取り戻してきた。心配していた下降だが、1回目で早くも洞穴の横まで下りることができた。そこからトラバース気味の懸垂で洞穴に戻ることができた。なんて素晴らしい登攀だったんだろうと、このルートを互いに褒め称えた。からだ全体にあふれるような達成感というのは、やはり冬壁でしか味わえないような気がする。疲れ切って動く気にならない。ゆっくり休みながら、ラーメンをつくって食べた。荷物を片付けて取り付きの雪面に降り立つ。4時半ころだったろうか。

今日中にトンネルまで行きたい。トンネルには暖かい空間、自由に使える水、快適なトイレ、そしてなによりも有り余る食料が待っていた。前回は取りつきから4時間もかかったが、今回はトレースが残っているのでもうすこし早かろう。気は焦るのだが、厳しい登攀のあとだけに、身体は憔悴しきっている。先頭をかわるがわる交代しながら、黙々と歩く。先頭を譲って一人雪の中で座っていると、充足感がこみ上げてくる。モノトーンの世界に生命の痕跡はそれほど多くないが、小鳥のさえずりは春の訪れを感じさせてくれる。今年の冬も終わった、そんな気がした。6時まえ、黒部ダムの麓に戻ってきた。黒部の河床からトンネルの出口付近を見上げる。雪がなければ大した距離ではないが、雪があるのと疲れているのとで、絶望的な高さに感じられる。前回はこの坂道を登るのに2時間もかかったのだ。夏ならおそらく10分もあれば十分だろう(これは大げさで30分近くはかかった・・・8/30)。お茶をのみ、行動食を詰めこんで最後の登りを開始する。たくさんラッセルしたと思って腰をおろして振り返ると、ほとんど進んでいないことが分かってがっかりする。お茶をのみ、また行動食を食べる。そのうち岡田君がおいついて、今度は彼がラッセルする。僕は歌を歌いながら時間をつぶす。やがて重い腰をあげて歩き始める。二人でそんなことを繰り返しながら一歩一歩雪の斜面を登って行く。そのうちに日が暮れて月がでた。丸山の後姿は黒く重たげだ。黒部別山の3つの顕著なピークは天をつくフォークのようだ。はたして入口は見つかるだろうか。

傾斜はますますきつくなり、空身でラッセルしなければならなくなる。地形の具合から、入口が近いことが感じられた。ふと左右を見渡すと、右側8メートルくらいのところに標識が見えた。喜び勇んでかけよる。近づくにつれ、中の光に照らされて雪面がうっすらと火照っているのがわかった。入り口は埋まっていなかったのだ。僕は再び光の世界へ向かって、身体がようやく入るくらいのその雪のトンネルを潜り抜ける。今度は下へ向かってである。いきおいよく滑り落ちる。どすん。すぐあとに荷物が落ちてくる。このギャップはなんだろう。天上界からいきなり人間界に追い落とされたようである。斑白のベールをかぶった黒部の巨人たち、ついさっきまで彼らを見上げていた自分は、いま蛍光灯に照らし出されたトンネルの中にいる。扉を開けると洗面台。廊下には所狭しとわけのわからない道具が散らばっている。わかんがコンクリートにあたってカタカタと高いおとをたてる。外すのも面倒なので、そのままトンネルを歩いていく。トロリーの駅でしばし休んでいると、岡田君が来た。今回はじめて握手を交わす。ようやく生きた心地がしたのだ。こんなときに酒がないのはちょっと寂しいが、胃袋が満たされればそれで満足だ。

6時起床。朝食を食べながら片付けをする。デポしていた分とあわせると膨大な量になり、何から手をつけて良いのやらわからない。ザックに全ておさまりきるかが心配だったが、何とか収まった。おさまってみると、今度はそれを持つことができるか心配になる。30キロはゆうに越えていた。こんな荷物を担ぐのは久々である。これから先の長い道のりを思うと、言葉も少ない。7時半に歩き出す。前をみるとぞっとするので、ひたすら下を見て歩く。不思議なもので、次第に重さにもなれ、ペースも上がる。トンネルはあいかわらず長くはあったが、意外に短い気もした。6kmのトンネルを1時間10分ほどで抜ける。そして再び光と雪の中。後立山のあの真っ白い稜線は、今日もよく見えている。時折氷に足を取られ、こけたりもしながら車道をぐんぐん下っていく。あんまり早過ぎると昭和軒が開いてないかも知れない…そんなことを心配する余裕も出てきた。10時にははや車に戻っていた。

温泉に浸かった後、昭和軒に向かう。今日は開いてるかなあ、とどきどきしながら店を覗く。営業中の看板がかかっている。(8/29に三度目の訪問。しかし「支度中」だった・・・8/30記)ほっとして中に入る。「ひれかつ重」を注文する。ソースはやや辛。僕の好みとしては「きらく」の方に軍配が上がる。正午すぎに大町を出発、4時半には京都に戻ってきた。

 

エピローグ カツ丼史研究序説

 

今年の冬は信州に通った。そして毎回、かならずソースカツ丼を食べた。駒ヶ根、大町。いずれもソースカツ丼発祥の地をうたっている。一体どちらが元祖なのか、ソースカツ丼を愛する一庶民としてはだまっていられない。実証的歴史研究の正統的手法からいえば、ソースカツ丼発祥に関する資料を可能な限り博捜し、それぞれの資料の信頼度を見極め、信頼度の高い資料を比較検討し、発祥の経過及び年次を確定するという作業を要する。だが一部の専業料理研究家ならいざしらず、その他大勢の貧乏暇無し庶民にとって、そんなことはしてられない。よって、考証は観光ガイドを読み解くという作業に限定せざるを得ない。ガイドの当該記事作成者がどのような一次資料をもとに記事を書いたのか、記事の作成過程に他者の干渉があったのか、こうした点を紙面から窺うことはできない。また手持ちのガイドは伊那編と大町編がそれぞれ別の本として収められているのは、かえすがえす残念なことだ。1冊の本に両者が収められていれば、一貫性を保つためにどちらか一方を「元祖」にしたであろうから。いまここで検証できないことをあれこれ嘆いてみても仕方ない。いまここでできることは、ガイドのテクストを丹念に読み解くことである。現地で購入した『ガイドのとら 安曇野・白馬』(スポーツジャーナル、1999)、49頁にある昭和軒の紹介はつぎの通りである。

ソースカツ丼の元祖はココ!

創業は昭和2年。地元で愛される庶民派の食堂だ。おすすめは40年以上も前からメニューにあるソースカツ丼(800円)。創業以来作り足しているダシ汁とウスターソースで作る秘伝のソースが、深い味わいを生み出している。

まず、昭和軒をソースカツ丼の元祖とする小見出しで、すでに読者は昭和軒が元祖であるという思いこみを抱いてしまう。だからさらりと読み流してしまうと、この文章に隠されたレトリックを見落としてしまうのだ。小見出しに騙されてはいけない。次に「創業は昭和2年」とある。「創業」とはいうまでもなく店ができたことで、ソースカツ丼が発明されたことではない。考えてみれば当たり前のことだが、小見出しに翻弄された読者は、創業=ソースカツ丼発祥という短絡的な思考に容易に陥ってしまう。これは相当高度なテクニックだ。しかしこんなことにひっかかっているようでは、カツ丼を愛する一庶民の実証的歴史研究は失格である。ことに憎いのは、「庶民派の食堂」という文句である。庶民は「庶民」という言葉に滅法弱いのだ。有閑ブルジョワ階級に対する妙な反抗意識のみから成り立つ一般庶民の連帯意識をうまく誘い出す戦術である。こうした言葉にはとりわけ注意する必要がある。自らのアイデンティティを冷静に見つめ、その陥穽を十分に認識することなしには「客観性」を売り物とする実証主義に傷がつくのだ。よくよく読めばその次の文章が、われわれの疑問に対する答えそのものであることに気づくはずである。ソースカツ丼は40年前からメニューにある、と。40年前といえば、昭和30年代だから昭和2年とか3年とかにソースカツ丼があったという駒ヶ根から遥かに遅れている。だがここでも記者の巧みなレトリックが仕組まれている。40年前にソースカツ丼が発明されたとはいわず、すでに40年前にはメニューに載っていたという言い方である。これではいつ発明されたかを特定することができない。さらに紛らわしいのは、40年前にメニューに載っていたというすぐそのあとで、「創業以来作り足しているダシ汁」と言っていることである。素直な読者であれば、創業以来、その「ダシ汁」を使ってソースカツ丼を作ってきたと理解してしまうだろう。しかしながら、「ダシ汁」というものは、日本料理の万能薬であって、どんな料理にも使えるのだ。だからもし本当にダシ汁を創業以来作り足しているとしても、それがソースカツ丼に使われたかどうかというのは別の話である。にもかかわらず、あたかも昭和の初めから綿々とソースカツ丼がそのダシ汁を使って作りつづけられているように表現されている。記者のレトリックはここに極まったといえよう。以上、正統的な実証的歴史研究の手法による読解で得られた分析をもとに、この記事の信頼度を計って見よう。

この資料には事実の隠蔽の痕跡が随所に見られる。それは単なる無知、あるいは店の主人の情報を真に受けてといったものではない。隠蔽の技術はかなり高度なものであり、店の宣伝のために事実を巧みなレトリックで覆い隠し、小見出しに見られるような誤った印象を多くの「庶民」に植付けることに見事に成功している。もしかりに記者が事実を曲げて報道したと訴えられても、文章自体は一言も発祥の事実に触れていないから、責めることはできない。つまりこの文章は店の主人との共謀による歴史の捏造を計ったおそるべき陰謀だったのである。そして数多くの無知で従順な庶民たちを昭和軒へと駆り立てて行ったのだ。記者はこの功績により多額の賄賂を受け取ったはずである。現金だとまずいので、それはカツ丼一生食い放題券かもしれない。だが元祖でないことを百も承知のこの記者が食い放題券で満足するであろうか。いや、禁欲的な実証的歴史研究がこんなところに立ちいってはならない。書かれている以上のことを書いたとき、それはもはや客観的事実であることを止めて、「実証的歴史研究家の想像物」と化してしまうのだ。彼にはそんなことをする勇気はない。もしあれば「実証的歴史研究」などに足を踏み入れることはなかっただろう。ガイドの緻密な解読より得られた結論とは、すなわち、

大町(昭和軒)はソースカツ丼発祥の地ではない

と言うことに尽きる。実証的歴史研究の弊害としてよく言われるのは、延々とつまらない「実証」を続け、こんなくだらないことを続けるからには結論はさぞかしすごいんだろうと期待させておきながら、結局たいした結論もなく終わってしまうことである。そしてそのほうが「実証的」でのちのちにも「使える」と評価されることである。あれやこれやといいながら、結局はこんなことしかわからないのか、時間の無駄だ、税金の無駄だ。こんな批判も出てくるだろう。彼は、しかし驚かない。しつこくつきつめられると、「事実は小説より奇なり」というのは真っ赤なウソであること実証的に説明し出すかもしれない。たいていの人は、その段階で手をあげて逃げてしまう。実証的歴史研究は孤独との戦いでもある。

 

本論脱稿後、インターネットでカツ丼史研究のホームページがあることを知った。興味ある面々はhttp://www2.cds.ne.jp/~sheep/kdon/index.htmlllへアクセスされたい。筆者はそこで意外なるカツ丼史研究の広がりに驚きを感じると共に、同好の志が数多くいることを嬉しくまた心強く思った。そこにはカツ丼発祥の3つのシナリオが描かれている。

【一説】 明治時代ドイツへ6年間留学した高畠増太郎氏が、大正2年東京で開かれた料理発表会でソースカツ丼を披露。その後、早稲田鶴巻町の自分の食堂で売り出す。(参考:『ベストオブ丼』文芸春秋出版)

【二説】 大正10年早稲田高等学院生中西敬二郎氏が友人らとソースカツ丼を考案。周囲の食堂に広まる。

【三説】 昭和7年上野の『楽天』という店が考案。

 

以上の諸説に対する検討は、また機会があればということにさせていただく。ともかくも、今後もカツ丼史研究が活況を呈し、日本近代文化史料理史に新たな風を注ぎ込むことを願って止まない。そして読者の方々がカツ丼史に対する興味を抱いていただければ、筆者としては望外の喜びである。最後に、本論は決して昭和軒を愁傷するものではないことを断っておく。あのおばあさんに罪はない。筆者はこんなことを書きながらもまた昭和軒へと足を運ぶであろう。元祖と味は関係ないのだ。

 

 

こんなことを仕事中にしていていいのかという呵責の念にとらわれながら……

2000年3月 春風薫る北白川にて

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